『沈黙のプレリュード』1章風駆ける 笠原ちなみ

沈黙のプレリュード

1章は3節構成で、そのうちの1節を先行して推敲版を上げます。1章全て書き終えたら、加筆修正して正式版とします。創作過程も一緒にお楽しみいただけたらと思っています。
 ー赤虎毛九作ー

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※生成AIによるイメージ画像のため、一部表記がおかしいところがあります

◆P1-1-1(推敲版):スタート前


2025年4月 

昨日の土曜日は、日中は30℃近くまで上がったそうだ。1日ずれていたら、大変なことになっていただろう。

スマホでウェザーニュースを開くと、今日は最高気温14時24℃の予報。今は9時前で19℃。気温はまだ落ち着いているが湿気は高く、公園の芝生はしっとりと濡れていた。

ー14時ごろって、どのあたりを走ってるんだろうー

ドン、ドン、ドン

空砲が鳴り、紫の煙が風に流れた。

***

スタジアム奥の女子更衣室で着替え、手荷物を預けた。運動公園トラック脇の仮設トイレに並びながら、結衣にLINEを送った。

《ちなみ:いまどこ?》

《結衣:手荷物預かり》

やりとりを終えて、管理事務所近くの出店スペースに向かうと、盲導犬のラブラドールが数頭いた。かわいくて首元を撫でていると、背後から声がした。

「ちなみっ」

「ああ結衣、久しぶり!今日はありがとう。水戸から土浦までは、結衣パパが送ってくれたの?」

「ううん。昨日、急な欠員が出て、結局一日勤務だったから、東京から直行。実家には寄ってない」

「そっか。病院薬剤師って、土曜も勤務あるんだよね」

「でね、父さんから連絡あって。今日は都合が悪くなったから、代わりに弟の涼太を寄こすって」

「えっ、ほんと? 結衣パパに、久しぶりに会いたかったなぁ…お世話になったから」

「門前の先生から、メンバーの誰か都合がつかなくなったみたいで、急にゴルフ誘われたらしいの…断れなかったって」

「さすが薬局チェーンの社長さん、日曜も忙しいのね。涼太くんって、もう社会人だっけ? 結衣と同じで薬学部だよね」

「うん。ギリ卒業してギリ国試に合格して、去年から大手調剤チェーンで修行中。車の運転は学生時代から乗っているから、問題ないよ」

***


ラブラドール全頭の頭をなでてから、結衣とスタート地点へ移動。

「涼太くんも、今日は走るの?」

「今年は3月のレースでシーズン終了だって。私は寒いの苦手だから、2月・3月の大会は避けてる」

「私は初めての東京マラソン以外だと、10月の水戸黄門漫遊マラソンばっかり。結衣に誘われて今回が初かすみがうらマラソン。4月開催って寒くなくていいね」

「ちなみって、寒さ強いんじゃなかったっけ?高校まで剣道やってたし」

「もう10年以上前だよ。東京で暮らすようになって、めっきり寒さに弱くなった気がする。高校卒業してから胴着も着てないし、素足の寒稽古なんて今や考えただけで無理」

「10年かぁ…でもあんまり感じないよね。ちなみとは、ずっと会ってるからね」


***

スタートブロックの道路の1本内側で、結衣がやるストレッチやドリルを、真似しながら身体をほぐした。

「その節は、ほんとにお世話になりました。結衣パパにも直接お礼言いたかったな」

「まあいいんじゃない? あのマンション、家族には最初『愛人宅?』って言われてたし。バブル崩壊後で今の相場からすると、かなり安く買えたって言ってた。買ってしばらくは賃貸に出してたけど、私が大学に上がるときには更新しない契約にしてたんだよね」

「今もあそこに住んでるんでしょ? オーストラリア大使館の近く」

「そう。私、高校からずっと自転車通学なの。定期買ったの、大学1年生のときだけ。八王子の祖父母の家から相模原キャンパスに通ってた頃。今の職場も芝に住んでるのが採用理由のひとつだったかも」

「羨ましい…」

「でも築年数かなり古いしね。うちと同じ2LDKの部屋は埋まっているけど、1LDKの単身者用の部屋とかは、結構空いてるよ。外壁がうねうねしてるレトロなデザインとか、首都高に近いのとか、若い人にはあまり受けないのかもね」

***

「大学2〜3年ときはよくお邪魔してたよね」

「お邪魔というか、住んでたでしょ。父さん、ちなみ用に布団セット揃えてたし」

「ほんと、感謝しかないわー」

「父さん、ちなみのファンだから。私のコーラス部の発表は来ないくせに、ちなみの剣道の試合は見に行ってたし」

「剣道やってたからでしょ? 八王子の有名な道場に通ってたんだよね?」

「そう。土方歳三を育てた道場とか言ってたけど、ちょっと眉唾。でもその影響で私も涼太も小学生まで剣道やらされた」

「でも結衣、強かったじゃない。私、小学生の頃、一度も勝てなかった」

「身長差だよ。ちなみ、小学生のとき、めっちゃ小さかったし」


***

ーまもなくスタート30分前になります。ランナーの方は、各自スタートブロックへお並びくださいー

場内アナウンスが流れた。結衣はBブロック(第2ウェーブ)、私はC(第3ウェーブ)。スタート地点と時間は違うけれど、まだ少し話せる。

都市型マラソンと違って、地方大会はギリギリまで列に並ばなくても、うるさく言われないのがいい。

「でも、結衣パパも安心だね。結衣も涼太くんも薬剤師になって」

「私は薬局は継がないよ。涼太がやるの。私は病院勤務を続けるわ。でも涼太が国試に受かってくれて、本当にホッとした。薬学部なのに箱根駅伝目指してた時は、どうなることやらと思ってたけど」

「薬学部で箱根駅伝出る大学なんてあるんだ?」

「出たことはないけど、目指しているところが大宮に一つだけあるの。薬学部としては新設の部類に入るところなんだけれど…なんか学長が箱根に思い入れがあるみたいでね。涼太はその学長のこと、かなり好きみたいだけど」

「新設の薬学部… 涼太くん、私立の進学校だったよね? お父さん、よく許したね」

「最初は反対してた。都内の薬科大に入って欲しかったみたい。でも涼太が“会社を継ぐ”って約束して、最後は折れたの」

「見た目はひょろっとした感じだけど、意外と骨あるんだね」

「その大学、未だ予選通過の夢は叶ってないみたいだけど、涼太の時、創部以来最高の順位だったとか言ってたわ…そう、ゴールしたら連絡ちょうだい。どれくらいでいけそう?」

「4時間半くらいかな。5時間は切りたいけど」

「もうちょっと速くなかったっけ?」

「最近は全然走れてなくて」

「私はキロ5分半で行けるとこまで行くつもり。でも天気次第では、私も分かんない。ゴール時間はあまり変わらないかもね」

***

結衣と別れ、私は駅の方へ歩いて左折し、スタジアム横のCブロック最後方に並んだ。

前方でスタートの合図が聞こえる。メダリストのチャリティーアンバサダーの激励が、高く響いた。

集団が、ゆっくりと、動き始めた。


◆P1-1-2(推敲版):【回想1】スタート→14km



大会主催者、スペシャルサポーター、大会MCらが、スタート地点の壇上から手を振る中、ランナーの波は陸橋を渡って進んでいく。前半はアップダウンの続くコースだ。

気温が高くなり、湿度もじわっと感じる。

今回のかすみがうらマラソン、参加者は約1万人だそう。まさか自分がその中にいるなんて、大学を卒業したばかりの私だったら、想像もつかなかったはずだ。

* * *

2018年4月

私は大学を卒業すると、日本の多くの学生がそうするように、そのまま新卒で、BrightSeeds株式会社へ入社した。

《すべての人がよりよく生きるため、未来を育てる発芽点に》

という理念を掲げ、妊娠期から育児、学習、受験、社会人教育、そして介護まで。人生全体をサポートするビジネスモデルを持った一部上場の大企業だった。

私自身も、小学生の頃からBrightSeeds社の『Seedsゼミ』を受講していた。剣道の練習に追われる日々で、塾に通う時間はなく、自然と自宅で学べるこのスタイルが馴染んだ。

高校に入って、結衣に予備校を勧められたこともあったが、私はオレンジ先生との添削のやり取りが好きだった。大部屋の集団授業より、ずっと性に合っていたと思っていた。

だが中学までは自宅学習や学校の勉強でも理系科目は得意の部類だったが、高校に入ると化学も物理もついていけなくなった。

数学・英語・現代文は得意のままだったので、担任の勧めで3年生から文転し、得意科目の構成から、経済学部一本に受験先を絞った。

高校時代は部活に学校行事にと、充実した時を過ごせたが、少しそちらに重心がかかりすぎていたようで、第一志望だった茨城大学は不合格に終わった。押さえに受けた地元と東京の私立大学には受かっており、悩んだ末、東京の私立大学経済学部に進んだ。

だが、入学してすぐに気が付いた。私は経済そのものにあまり関心がない。興味を持てたのは、人口学のゼミくらいだった。この“違和感”が、就職活動にも大きく影響した。情報通信業やサービス業、金融・保険業などに進む同級生が多い中、私は教育関連の企業を志望した。
通信教育で、自学自習の可能性をもっと広げたい…そんな思いがあった。

「どんな環境の子どもでも、好きなように学べる場を作りたい」と。


***

業界でもトップクラスの規模を誇るBrightSeeds株式会社。その多くの機能は、東京の二子玉川にある「にこたまセンター」に集約されていた。私も、全国の新入社員41人と共に、そこへ配属された。

研修後の配属先は「Seedsゼミ 小学講座プロモーション企画部」。その中でもデジタル広告チームに加わることになった。

業務は、広告出稿・効果測定・代理店との調整・会員向け施策の立案など。思っていたよりも地味で細やかな作業の連続だった。

チームは以下の4人構成。

  • 佐藤和義さん(34):日焼けした肌と細身の体。淡々とした口調のリーダー。
  • 皆川翔子さん(28):私のメンター。“オレンジ先生”のような温かさと的確さ。
  • 中村弘哉さん(25):ITに強いが、やや頼りなげな雰囲気。
  • そして私、笠原ちなみ(22):新卒1年目。

社内では役職名は使わず、全員「さん」付け。座席はフリーアドレスで、空いた席にノートPCを持って移動するスタイル。最初は戸惑ったが、私はいつも翔子さんの隣に座るようにした。彼女のさりげないフォローに支えられて、少しずつ馴染んでいった。

* * *

2018年8月

真夏の暑さがまだまだ続く午後、チームミーティングが終わる間際、佐藤さんがふと口にした。

「さあ、今年もエントリーの時期だね」

「……エントリー?」

翔子さんと弘哉さんが目を合わせ、小さく首を横に振る。だが私は空気を読まずに聞いてしまう。

「何のエントリーですか?」

「東京マラソン。来年3月にあるやつ」

「こんなに前から申し込むんですか?」

「抽選だからね。8月末が締め切り」

佐藤さんは、珍しく表情をゆるめて続けた。

「笠原さんはどう?」

「え、フルマラソンですよね? 私、無理です……」

「大丈夫。制限時間7時間あるし、早歩きでも完走できるって。でもね人気ありすぎて、倍率は13倍くらいかな」

「そんなに!?」

「私も1回しか当たってない。でも試しに応募するだけでもどうかな?」

「高校までは剣道部で走ってましたけど……大学からは芝公園あたりをジョギングするくらいで」

「ほう、それなら下地はあるね」

「まあ、就職後もダイエット目的で周に2〜3回、家の近くの駒沢公園を走ることはあります」

「それなら十分だね。走れる走れる」

やけに熱心な佐藤さんの姿に、私は面白くなって「じゃあ、エントリーだけ」と答えていた。

その横で、翔子さんと弘哉さんが声を揃えた。

「その日は、あいにく予定が入ってまして〜!」


***

チームミーティングが終わり、窓側のデスクで翔子さんと並んで、明日のTODOリストをまとめていた。

「ちなみさんって、高校で剣道やってたんだっけ? それで走るのは得意だったんだ」

「いえ得意とかではないです。大学時代、東京の友達の部屋によく泊まってて、その子がジョギングの習慣があってお付き合いで……」

「なるほどね。走ることに抵抗がないんだったら、いいんじゃない?」

翔子さんが、ふと窓の外を指さした。

「あれ見て。内田さん。今は別の部署だけど、前はこのデジタル広報チームでね。佐藤さんに東京マラソン誘われて、当たっちゃった人」

そこには、短パン・ノースリーブにスポーツサングラス姿の男が、足を大きく回したり、振り上げたり、下ろしたりと、おかしな運動を繰り返していた。

「日焼けすごいですね…まだ30℃近いですよ?」

「“帰宅ラン”って言うらしいよ。最近、新百合ヶ丘に家を買ったって聞いたけど」

「えっ、ここからだと、15キロくらいありますよね?」

「そうね。昔は色白で、ただのオタクだったはずだけどね…」


***

そして私は、まさかのビギナーズラックで当選。佐藤さんと内田さんは落選。

秋からは、月に1〜2回、駒沢公園や多摩川で、佐藤さんの簡潔な基礎指導と、内田さんのオタク気質なフォーム分析を受け、準備を進めた。

「おっさんばかりじゃね」と、たまに翔子さんも顔を出してくれて、いつもどこかの美味しい和菓子を差し入れてくれた。

それ以外の休みの日には、自主練で駒沢公園を走った。汗を流すたび、毎日のちょっとしたわだかまりが、少しほどけて行くのが心地良かった。


***

そして、2019年3月、東京マラソン本番。

佐藤さん、内田さん、翔子さん、このときは《仕事とプライベートは別》といつも言っている弘哉さんも応援に来てくれた。

ただただ楽しいだけの42,195km、給水以外は歩くことなく、無事完走でき、記録は4時間39分だった。陸上経験ゼロにしては、上々の初マラソンだった。

今思えば、そう…なんとありがたい社会人1年目を過ごせたのだろう…




◆P1-1-3(推敲版):【回想2】14km→28㎞


2019年4月

2年目の春。チームのメンバーに人事異動があった。翔子さんが人事部広報チームになり、その代わりとして広告代理店出身の中途採用者、”田口利恵”が配属された。「デジタルマーケティングの専門家」という触れ込みだった。

春の人事異動。自然な流れに見えたが、その後チームの空気は少しずつ変わって行った。表面上は穏やかでも、水面下には乾いた緊張が漂い始めた。


***

田口さんは“自分のやり方”に強いこだわりを持つ人であった。入社して数カ月はそれほど目立たなかったが、次第にITに詳しい弘哉さんが、余裕をもって働いている姿勢に対して、何やら手抜きをしているような不満を感じたらしい。

佐藤さんや私のような今までいたメンバーからすれば、それはある意味彼の持ち味で、手抜きをしているわけではないのは分かっていた。

田口さんの彼への要求が、日を追うごとに厳しくなっていった。確かに「デジタルマーケティングの専門家」というのもあったし、彼女の言うことはいちいち正しくはあった。

最初はその要求を適当にいなしたり応えたり、あいまいにやり過ごしていた弘哉さんも、やがて表情が曇りがちになって行った。

ーまあ今思えばだが…田口さんは、転職した後、自分の成果を焦っていたのかもしれないー

これも後から聞いた話だが、そのふるまいを見かねていた佐藤さんが、田口さんとマンツーマンで注意をしていたそうだ…


***

そしてあの時、事件は起きた。チームミーティングの時に、またその傾向が田口さんから出てきたので、佐藤さんが「もう少し、中村さんのやり方も尊重しよう」と柔らかく田口さんを諭した。

その瞬間だった。田口さんが堰を切ったように感情的になった。何であそこまで言えるのか、私には全く理解ができなかった。その後その時のミーティングのことが、社内で噂になった。

事件から10日ぐらいして、私は人事部に呼び出された。

「パワハラ? 佐藤さんがですか? 私にはまったく…」

そう答えると、人事の担当者は「いろんな人の話を聞いているだけだから、内容は他言しないように」と言った。

そしてその秋―2019年11月。人事異動の時期でもないのに、佐藤さんは突然、介護施設等を扱うヘルスケア事業部へ配置転換された。

代わりに配属されたのは、「上が言っているから」「上に聞いてみないと」を繰り返すリーダーだった。正直こんなタイプのリーダーが、この会社にもいたのかと驚いた。その後チーム内の物事は、田口さんの意向で決まっていくようになった。


***

ある日、チームミーティングの前、弘哉さんとコーヒーを飲んで一息ついていた時、彼が声をひそめて言った。

「内緒だけど……田口さん、常務の同窓のご令嬢らしいよ」

「それって、コネ入社ってこと?」

「そうかも。お父さんは教育界のお偉いさんで、なんかそのツテらしい。前の職場でも人間関係あまり良く行かなくなって離職したみたい」

「…よく知ってますね、そんなこと」

「情報通だからね」

「あっ…翔子さん?」

「だめだめ、それ以上は。憶測で話すのはやめてよ」

彼はやがて、田口さんの“手足”として働くようになった…何か割り切ったというか、吹っ切れた感じだった。


***

次に“教育”対象となるのは、私かもしれない。そんな不安を感じはじめたころだった。

2020年4月、緊急事態宣言が発令。

職場は完全リモートになり、田口さんと直接顔を合わせることがなくなった。それだけで、驚くほどストレスは軽減した。

そして、思わぬ追い風が吹いた。リモート学習の需要が急増し、会社の業績は伸びた。私たちのチームも評価され、社内報にも名前が載った…ただし、田口さんの手柄として。

***

そして翌2021年4月、好業績を受け、DX推進をさらに加速させるための大号令が出され、ダイナミックな組織改革が行われた。

私の所属は「デジタルマーケティング部 小学生課」となった。新しいリーダーは異業種出身の入社3年目の方で、佐藤さんより若く優秀な感じがしたが、どこか肌感覚に距離があった。

田口さんは他のチームリーダーとして昇進し、弘哉さんは私と同じチームに残った。もう1人新メンバーが加わり、前と同じ4人体制だったが、この女性も他業種からの中途採用者だった。

“どんな環境の子どもでも、好きなように学べる場をつくりたい”

入社当初の思いと、KPIや広告数値ばかりを追いかける毎日とのあいだに、じわじわと、違和感が広がっていた。

***

28キロ地点。

霞ヶ浦の湖面が、遠くに揺れて見えた。空には雲が広がり、湖から吹く風は冷たく感じた。

前半の暑さとアップダウンで疲労が蓄積していたらしく、脚が重くなってきた。

ー呼吸は苦しくない。脚だけが動かない…力が入らないー

沿道の応援もまばらになり、気力をつなぎとめるものが少なくなった。

時計をみると、いつもよりペースは明らかに落ちていた。

あと14キロ…何も考えず、前傾姿勢をキープして腕を振り、膝を前に出し続けた。



◆P1-1-4(推敲版):【回想3】28km→ゴール


2021年11月

BrightSeedsに入社して4年目となっていた。4月の大号令の下、新体制になり、バタバタした日々を過ごしていたが、秋が深まる頃になると、なんとか自分の中で落ち着きを取り戻していた。

走ることは続けていた…このことがどれだけ精神の安定を支えてくれたのだろう。

コロナ禍以来“密を避ける”のが習慣になり、走り方も変わっていった。週末は、街中や公園を、ゆっくりと流すように走る。

***

この日は、桜新町の駅の近くのにできたパン屋を目指していた。焼きたてのパンをひとつ買い、ソイラテを注文した。その店は2階がカフェスペースになっていて、購入したものをそこで食べることができるお店だった。ソイラテのカップを傾け、ひと息つくと、心が少し和らぐ。

そのときだった。窓の先、地下鉄の出口のところ、街のシンボルの銅像たちが並ぶ横に、スーツ姿の男が立っていた。マイクはない。手振りだけで、何かを語っている。聞こえないはずのその演説が、不思議と心に届いた。

ーこの人、何を伝えたいのだろうー

視線が離せなかった。選挙期間は終わっているのに、人通りの中で彼の姿だけが妙に引っかかった。

《 新桜町 議員 男 》

雑すぎる検索ワード。でも、それしか思いつかなかった。表示された名前の中に、その顔があった。

「綾川尚志…国会議員か。なんだ自分の隣の選挙区じゃない。どこかで見たことがある気がしてたわけだ」

そう呟きながら、指は無意識に画面をスクロールしていた。

***

夜。歯を磨き終えたあと、またスマホに手が伸びる。

《 綾川尚志 演説 》

検索結果の動画を再生すると、見慣れた風景が映った。

「あ、この事務所…駒沢公園の北側だ。あの交差点に八百屋さんがある通りの…2階みたい」

画面を閉じながら、ぽつりとつぶやく。

「今度の休み、ランニングがてら……前を通ってみようかな」

***

休みの日に走るルートが、少しずつ変わっていった。駒沢公園のランニングコースよりも、道路わきの歩道を走ることが多くなった。綾川事務所、駒沢大学駅、桜新町駅、パン屋…気づけば、自然とそこを選んで走っていた。

綾川尚志…彼のTwitterやYouTubeも何度か見返していた。衆議院の選挙前と選挙後も、伝える内容や熱量は変わっていなかった。

センスのない字幕に「まあ、本人が作ってるわけじゃないだろうけど」とツッコミを入れながら、それでも再生ボタンを押す自分がいた。

***

その日も、サザエさん通りを走り、桜新町駅に向かうため、右へ曲がった時…

汗ばんだランシャツ越しに、見覚えのあるスーツ姿が少し遠くに見えた

ー綾川尚志ー

あの日以来、画面越しでしか見ていなかった人物が、すぐそこに、実在した。

走るスピードを遅め、目の前で止まる。

目が合う。一瞬、言葉が出なかった。

「……あの」

綾川尚志が振り向く。

「何か?私に質問があるのかな?」

「……はい」

大きく息を吸って、口を開いた。

「あの……事務員って、募集してますか?」

彼の目が、やわらかくなった。

自分でも、なぜその言葉が出たのかわからなかった。ただ、口が先に動いた。

名刺が差し出される。

「じゃあ、ここのアドレスに履歴書を送ってください。私からも秘書に伝えておきます」

名刺を受け取るとき、手が少しだけ震えていた。

「……ありがとうございます」

それだけ言って、小さく頭を下げて、その場を離れた。

***

「やっちまったー」

部屋着のままソファに倒れ込み、スマホを顔に乗せて呻く。

「社交辞令だよね、きっと……有権者対策だよ」

そのとき、LINEの通知音。

《結衣:明日暇?友達が体調崩しちゃって、管弦楽団の演奏会、付き合ってくれない?》

秒で返信。

《ちなみ:行く行く!相談したいことある》

《結衣:あら珍しい 言いたいこと、ちゃんとまとめてきてね》

画面を見つめて放心したのち、枕に顔を埋める。

「まとまってないから相談したいんだよぉ……」

***

「だから…名刺もらって、履歴書送ってくださいって言われて…!」

カフェのテーブルで、ちなみはパンフレットを握りしめながら、早口でまくし立てた。

「履歴書、開いてみたけどさ…社交辞令かもしれないし、勢いだったし…」

隣の結衣は、カフェラテを飲みながら静かに聞いていた。やがて、ふっと笑って言う。

「ちなみの好きにすればいいと思うよ」

「え、なんかもっとこう、もっと具体的に、なんかないかな…」

「じゃあ、言い方変えるね……もう、顔に書いてあるよ」

「えっ!? なに? なんて書いてある? 」

「自分で見れば?」

スマホのインカメラに映る自分の顔を見て、ちなみは両手で頭を抱えた。

***

夜。

履歴書はPDFで添付済み。宛先も件名も入力済み。

あとは、送信ボタンを押すだけ。

「社交辞令だったらどうしよう」

「すぐに落とされたら…」

「仮に受かったら…会社辞めるの…?」

“でも”と“もし”が頭を巡る。

その中で、あの日の手振り、眼差し、そして結衣の言葉が浮かぶ。

「ふう…」 深呼吸。

「……えいやっ」 送信ボタンを押す。

ーカチッー 小さな音が、静かな部屋に響いた。

***

2022年5月、私は新卒で入社した会社を4年1カ月で辞め、駒沢公園通り沿いにある、綾川事務所へ転職した。

***

「ナイスラン、ちなみ!あと少し!」

結衣がゴール手前で手を振ってくれた。

思ったより粘れたラスト、タイムは4時間26分。

サブ4いけるかも…走り始める前はちらっと考えたけど、やっぱりそんなに甘いものではなかった。

参加賞を受け取り、手荷物預かり所へ向かう途中、結衣と笑いながらハイタッチ。

ーまあ、これが今の実力。素直に認めましょー

笑顔のまま空を見上げた。

雲の切れ間に、春の光がやわらかく満ちていた。


◆P1-1-5(推敲版):木綿の湯



走り終えたあと、結衣と2人で土浦駅近くの駐車場へ向かうと、弟の涼太が、濃紺のレガシーの前で、大きく手を振っていた。

「ふたりとも、お疲れー」

「マジで神。涼太、今日は助かる!」

「姉ちゃんにそんなこと言われたの、初めてかも」

「ほんとありがとう、涼太くん。マラソン後の温泉なんて、王道すぎて最高」

「じゃ荷物はここに積んで」涼太がバックドアを上げた。

「これまだ乗ってんだ。父さんのお下がりよね」

「そっ。タダで譲ってもらったやつ。学生の頃から乗ってるから、愛着あってさ。まだまだ全然走るよ。スバルってやっぱ丈夫だね」


***

ドアを閉めると、ボンッと重厚な音が響く。

「元々は父さんのプランだよ。これから行く“木綿の湯”って、ドクターとのゴルフ帰りによく寄る温泉らしくて、父さん会員なんだ」

「今日、土浦周辺の温泉はどこも混んでそうだけど、あそこなら少し離れてるから静かで落ち着けそう…ありがたい」

「ちなみさん、大会走るのは久しぶりだったの?」

「そう、最近はゆっくりジョグしてるくらい。今回は結衣に誘われて」

「自分は先月、東京マラソン走ったよ」

「すごい!私も1回だけ。最近はエントリーすらしてない。でも水戸黄門漫遊マラソンはなるたけ出るようにしてる…毎年は出てないけど」

「水戸マラソンって、東京から日帰りできるし、最近人気だよね」

「そうなの? 地元だから全然意識してなかった」

***

「木綿の湯」に到着すると、まだ辺りは明るかったが、施設近くの駐車場は満車だった。第二駐車場へ停め、涼太が3人分の入浴料を支払う。

「じゃ、オレちょっと走ってくるよ。利根川と鬼怒川の合流点、剣先まで」

「……今から!?」二人声がそろう。

「今日、まだ走ってないしね。往復10キロ、ジョグで1時間弱ってとこ」

「そう。じゃお先に、温泉とビールいただきますね」

「どうぞどうぞ。自分は今日は飲めないし。バイト代もらって運転してるだけだから、心おきなく飲んで!」

「そういうとこ、結衣の家ってきっちりしてるよね」

「うちはね、そういうとこちゃんとしてる。だから私たちは堂々と飲んで、食べる!」

***

結衣が以前来た時よりは混雑しているようだったが、それでも静かに過ごす人が多く、ゆったりとした雰囲気が湯場にあった。茶色がかったぬるめの源泉も、限界まで走った身体に心地よかった。

湯上がりのビールが染み渡る…

「ぷはああ」ここも二人声がそろい、笑い合う。

しばらくして結衣が頼んだ料理が次々とテーブルに並びだした。

「こういうときは、自分で選ばず、結衣に任せたほうが間違いないなって思う」

「でしょ?…そういえば、最近どう? 転職してから」

「…やりがいはある。前の会社に居たままだったら、どうだったかなって方が強いのは、たしか。でも、このままま事務員として東京にいて、何ができるのかなって思うけど…まだよく分からない」

「そうなんだ…そう、今も駒沢公園の近くに住んでいるんだっけ?」

「うん、事務所の近くの後援会の方のアパート…ていうか三世帯住宅みたいなところを借りてる。その分家賃は抑えられてるけど…東京は本当に家賃が高い。引っ越す余裕は今の状況だとないかな」

「ほんとそれ。港区も物価バカ高くて、もし自分で家賃払ってたら、とても自分の給料じゃやってけない」

「大学生活、なんとかなったのも、結衣のマンションに泊めてもらえたからだなって、最近しみじみ思う。あれがなかったら、水戸から通うなんて無謀だった」

「まあね…でも父さんは、ちなみを私の“監視役”にしたいと考えてたみたいだから気にしなくていいよ」

「いやいや、それにしてもお互い、品行方正すぎたよね、大学時代」

「ちなみがいなくなってから、私ほんと生活荒れたから。食生活も部屋もぐっちゃぐちゃ…まあ国試終わって、社会人になってから、だいぶ挽回したけど」

「私、実家から野菜とか卵、40リットルのリュックで運んでたからね。じいちゃんの布製のやつ。重くて“これは戦時中か!?”って思った」


***

涼太が温泉から上がって来て合流。

「会計の時に決めたセットでいいや。たれカツ丼大盛り」とだけ頼み、2人の会話には入ってこず、黙々と平らげる。

「2階の休憩所でちょっと寝てくる。30分くらいいい?」

「どうぞごゆっくり。運転手さんにはちゃんと休んでもらわないと」

***

帰りの車中、結衣はとなりの後部座席で、ぐっすり眠っている。やっぱり姉弟、遠慮がない。涼太が、バックミラー越しに声をかけてきた。

「ちなみさんも寝ていいよ。明日、仕事でしょ?」

「ありがとう。涼太くんは明日仕事じゃないの?」

「そうだけど、大丈夫。休日は山走ったりその後、今日みたいに温泉とかでリフレッシュしてるから」

「山を走るんだ…で、今はまだ修行中って聞いたけど、どのあたりで働いてるの?」

「川崎の基幹病院前の薬局。住まいは溝口で、会社の借り上げ社宅。大手に入ったから福利厚生はしっかりしてるよ」

「じゃあ案外近いね」

「今日は、芝で姉ちゃんを降ろして、ちなみさんは駒沢公園まで送るよう言われてる」

「至れり尽くせりだ…ほんとありがとう」


***

「ちなみさん、駒沢公園で走ってるの?」

「うん、近いしね。でも最近は街中のジョグが多いかな」

「自分は多摩川が多いかな。でもね、実は駒沢公園で考えてることがあって…」

「おや?彼女と一緒に走るとか?」

「ちがうちがう……そもそもいないし…走るの教えるのに使おうかなって」

「ランニングコーチ?」

「近い将来、水戸の千波公園近くで、ランニングやウォーキングに関する店をやろうかなと考えていて、まずは駒沢公園で実績を作ろうっかなって」

「へえ…それってすごいね。新規事業的な感じ?」

「そうかな。うちの会社、もう薬局経営だけじゃ厳しいと思う。業界全体が逆風だし…父の代で終わるかもって話もある」

「そんなになの?」

「まあ、それはちょっと大げさかもしれないけど、大学の駅伝仲間とか、今の職場の管理栄養士と話しててさ。なんか新しいことできないかなって」

「ランニングスクールに付加価値か…たしかに、ただ走るの教えるだけだと駒沢公園だと、既にたくさんある感じ」


***

「そうなんだよね。それに薬局で働いていても思うんだけど、特に女性の現役世代なんだけど、20代から運動習慣がほぼなくなって、50代過ぎてから生活習慣病になったり、‟プレフレイル”になるパターン、すごく多いんだよね」

「プレフレイル?…ごめん勉強不足です」

「そもそもフレイルというのがあって、加齢で筋力や体力が落ちて、健康トラブルが増えてくる状態を指すのね。まあこれはお年寄りに多いんだけど、その前の段階がプレフレイル」

「私がプレフレイル予備軍ってこと?」

「ちがうちがう、たぶんちなみさんは全然違うと思う。

プレフレイルにならない成功例のデータも欲しいし、あとこのまま放って置くと、プレフレイルにそうなりそうな人が、運動や食生活を見直したら、予防できた、元気になったみたいなサンプルも欲しいんだよね。

ん……月2回、日曜日。その分、走り方はちゃんと教えるし、会費とかは取らないから、どうかな…って」

「へー、今私、誘われているわけね(…ってサンプルかい)」

「なんか毎日薬局で病気の人ばかり見てて、もったいないなって…何で事前に対策しなかったんだろうって」

「そういうことね…結構真面目に考えているのね」

「ほんと?じゃあ、よろしくお願いして、いいですかね?」

「今日の送り迎えは、それが目的だったのね」

「いや、別にそういうわけではなく…純粋にバイトです」

「わかったわ。お願いします。私も自己流にも限界感じてたとこだし」

「ありがとうございます!」

「じゃ、私もちょっと眠っていい?」

「どうぞどうぞ、着いたらお起こしいたします!」

***

寝足りない結衣を芝で降ろし、駒沢公園近くのコンビニの駐車場で私を降ろす。

「ちなみさん、他にも誰か走ってみたい人いたら誘ってくださいね」

私の職場は、すでにプレプレイルに突入している方ばかりだけどね…と思いながら、手を振って見送っていると、隣の住人の大学生、一ノ瀬美羽が、コンビニから出て来た。

「今の人…彼氏ですか? 出会いないって言ってましたよね」

ちょっとムッとしてる?

「ああ、今のは友達の弟。今日かすみがうらマラソン走って、送ってもらっただけ」

「そうか、ちなみさん…マラソン走るんですよね」

「年に1、2回だけどね…ちょっと待ってて、私もコンビニで買い物してくる」


***

リカバリーのため、タンパク質多めの朝食を買ってから、美羽と一緒にアパートへ向かう。

「地元の長野県安曇野も、ハーフマラソンの大会があります。東京からも走りに来る人も多いって聞きました」

「美羽ちゃんは走らないの?」

「走りません。大学の一般教養の体育以来、運動自体、全くしていません」

ーおお、やはりそうか…いたいた。まさに涼太くんが言ってた《学生以降、運動ゼロで老いていく女子》がここにー

「彼、涼太くんっていうの。いい子よ。紹介しようか?」

美羽、目を伏せ、頬を赤らめる。

ーま、紹介っていっても“生徒として”だけどねー

「さっきの人、彼女いないんですか?」

「さっきいないって言ってたけど、どうかな?もう一回確認しとく?」

「別にいいです…そういうつもりで聞いたんじゃないんで…」

美羽の少し前に回って、伏せた目を下から覗いて表情を確かめようとすると、顔をさらに背けられた…

ーまあ、二人ともいい子だからね。あとはご自由にー


***

口角を上げて夜空を見上げると、星ひとつ見えない。でも、それはいつものことだった。

空気の澄んだ安曇野育ちの彼女には、この東京の空が、どんなふうに見えているんだろう…

その思いとほぼ同時に、部活帰りの水戸の夜空の記憶がよみがえった。




【5-6月の執筆予定】
1章2節:ちなみの綾川事務所での面接から、夏の参議院選まで
1章3節:2025年第10回水戸黄門漫遊マラソン(回想あり)

『沈黙のプレリュード』
【目次】
1章「風駆ける 笠原ちなみ」
2章「旗上げる 佐久間修平」
3章「月光・第二楽章 遠山理子」
4章「息子 遠山恒彦」
5章「海辺のアリア 早坂灯璃」
6章「虚像 杉本慎二」
7章「光あるうち 是永塔子」
8章「風を受け 三宅慎之介」
エピローグ ~約束と祈り~

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